鎌倉街道沿いの羽衣町2丁目。
周囲を高いビルやマンションで囲まれた場所に、ぽっかりと開いた空間。
そこにある羽衣町厳島神社。
総本社は広島県の宮島にある厳島神社で、源頼朝由来の神社でもあります。
現在の境内は500坪ほどですが、以前は900坪と倍近くの広さあったそうです。
鳥居も四の鳥居まであり、現在の馬車道にある神奈川県立歴史博物館あたりに一の鳥居があったとか。
戦災で社殿が焼け、戦後は接収(権力機関が、個人の所有物を強制的に取り上げること)となり、昭和31年に接収が解除されて今の広さになったそうなのです。
治承年中(1177年)頃に、源頼朝が伊豆国土肥杉山(現在の伊豆市土肥)にあった杉山弁財天を、横浜村の洲乾島に遷したのが始まり。
当時、横浜村は入海をはさんだ細長い陸続きの半島で、その先端あたり(現在の北仲通)に弁財天が祀られていました。
洲乾島(しゅうかんじま)に祀られたことで「洲乾弁天」、または杉山弁天や境内に清らかな水の湧く七つの池があったことから「清水弁天(もしくは横浜弁天)」なんて呼ばれていたそうです。
紀元2056年(西暦1396年)頃になると、足利氏満が金紙金泥の般若心経を奉納。
紀元2120年(西暦1460年)頃に、太田道灌(江戸城を築いた人)が社殿を造営寄進。
慶長2年には、徳川家光から社領(神社の領地)六石一斗ほどを支給されています。
洲乾弁天は、広重などの浮世絵にも描かれ、江戸名所絵図にも名を連ねるなどとして、関東地方の名所の一つとして数えられていました。
洲乾島の先端の海に面した社殿があり、岸辺にはたくさんの松。
潮の満ち引きにより、松の木が海中に浮いているようにも見えたとか。
夜は漁火に照らされ、境内には茶屋の暖簾や提灯が連なり、緑の松葉越しに見える白い社殿がまるで竜宮城のような風景で、小舟に乗って洲乾弁天に詣でていたそうです。
今では想像できない!?
元禄年中の頃には、別当増徳院の境内に仮殿を造って一部の御神体を移したことから「上の宮杉山弁天」と呼ばれるようになり、洲乾弁天は「下の宮清水弁天」に。
お祭り時には、上の宮杉山弁天を下の宮清水弁天(洲乾弁天)に還していたそうです。
明治になると神仏を一緒に祀る事が禁止されたため、明治2年に下の宮清水弁天(洲乾弁天)は現在の羽衣町に。
その2年後の明治4年には、社格(神社としての格式のこと)の制定により、村社(村の鎮守のこと)として厳島神社になりました。
ちなみに、増徳院にある上の宮杉山弁天は元町に遷され、それが今の元町厳島神社になっています。
厳島神社の初代宮司は、龍山親祇(たつやま・ちかまさ)氏。
なんと、16歳の時に神職についたというのですから驚きです。
沼地であった羽衣町は、土を盛って土地を高くするなど、なかなか苦労が絶えない土地だったよう。
また、社殿も幾度か焼失・再建されています。
明治32年…横浜市内の大火で社殿が焼失
大正5年…再建
大正12年…関東大震災で倒壊焼失
大正15年…仮社殿で再建
昭和20年…横浜大空襲で焼失
ちなみに、戦時中は戦災を免れるために、御霊代を伊勢山皇大神宮に遷されていました。
その後、社地が接収となり、昭和31年に接収解除。
昭和32年に社殿が再建されて、今に至っています。
弁財天信仰は海上交通、貿易商業、土地の発展などを願うもので、まさに貿易港として栄えた横浜には縁の深い神様。
境内には、大田屋源左衛門(大田屋新田の開発者)が江戸浅草の三社稲荷を勧請した「三社稲荷神社」があります。
ご祭神は宗像三女神と呼ばれる三柱の女神。
・市杵島姫尊(いちきしまひめのみこと)
・多紀理姫尊(たぎりひめのみこと)
・多岐都姫尊(たぎつひめのみこと)
日本神話に登場する女神で、水や霧などに関係が深く、航海の安全や交通安全の神様です。
また、社殿に向かい右奥には境内社の赤い鳥居。
赤い小さな太鼓橋がある先には、銭洗弁財天も祀られています。
鳥居の先には岩窟と祠。
一番左の洞穴には水が流れ、お金を洗えるようになっています。
花はさっそく洗っていました。
銭洗弁天社のさらに奥に、もう一つ境内社。
豊受稲荷神社です。
鳥居をくぐった先にお狐さんがいらっしゃるのですが…なんとも特徴的なお顔です。
愛嬌あるお顔で、キツネというより犬に近いような親近感を感じます。
祠の両脇にも小さなお狐さんが一対いらっしゃるのですが、左側にいらっしゃるお狐さまのお顔はちょっと違います。
なぜだろう?
御朱印については、「対応していません」という張り紙が…。
どうやら、後で聞いたところによると、御朱印やお守りがいただける時間は決まっておらず大体日中のみ。
宮司さんのご都合によるようです。
銭新井弁天様にお狐さま…ぎゅっと凝縮された歴史を感じました。
次回は、御朱印がいただけるといいのですが…。