2015年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」。
主人公の文(ふみ)さんのお兄さんとして、吉田松陰が登場しております。
ちなみに、役は伊勢谷友介さん。
吉田松陰といえば、松下村塾が有名。
日本初の伊藤博文や騎兵隊の高杉晋作、山県有朋、久坂玄瑞など…歴史に残る数多くの偉人を輩出した学び場ですね。
松陰神社は、吉田松陰をご祭神に、開運招福をご利益としています。
明治15年(1882年)11月21日に創建されています。
吉田松陰は、天保元年(1830年)8月4日に、長州萩(現在の山口県萩市)の藩士・杉家、次男として生まれました。
そして、6歳の時に吉田家を継ぎます。
吉田松陰は学問を進めていくなかで、鎖国状態の日本の将来を案じるようになり、欧米の実情を知ろうと黒船に自ら渡米を掛け合います。
ところが、これは失敗し投獄されてしまいます。
出獄後に松下村塾という私塾で教鞭をとり、明治維新の際に中核となる多くの偉人を指導・輩出します。
しかし、安政の大獄で連座し、江戸の伝馬町の獄中で亡くなられるのでした。
享年30歳です。
それから4年後。
文久3年(1863年)に松下村塾の塾門下生であった高杉晋作や伊藤博文などの尽力によって、遺骨を小塚原から長州藩の抱地であった世田谷の地に改葬。
明治15年11月に、吉田松陰の意志を形にするため、門下生たちが社を築き、忠魂の鎮座することになったのです。
境内にある石燈籠は、松下村塾の門下生によって奉納されました。
本殿のとなりには、山口県の萩に保存されている松下村塾を再現した家があります。
吉田松陰の教育道場であった松下村塾のはじまりは、叔父である玉木文之進が天保13年(1842年)に寺子屋を開いたことから。
松下村塾の看板をかけたのが、村塾の名の起こりです。
塾長である玉木氏は公務多忙だったため、久保五郎左衛門が安政4年(1857年)まで引継ぎました。
その後、吉田松陰が再び投獄されるまで引き継ぎ、さらに玉木氏、兄である杉太郎によって明治25年まで存続しています。
吉田松陰は、嘉永5年(1852年)の23歳の時に半年ほど、安政2年(1855年)の26歳の時に冬出獄(米艦に乗船する事を企てて投獄)してから安政4年(1857年)11月まで、吉田松陰の実家・杉家で子弟を教育していました。
この月の5日に、はじめて八畳一間の塾舎が完成。
この時から塾に住まい、塾生に対して子弟同行の実際教育を指導しはじめました。
塾生が増加して手狭になった安政5年(1858年)3月には、十畳半の増築がおこなわれています。
そんな吉田松陰の名前が広く認められるようになったのは、安政5年の7月。
29歳の時でした。
藩主より家学(山鹿流兵学)教授を許可されますが、同じ年の12月に「安政の大獄」で連座、投獄されてしまいます。
その間、わずか5か月でした。
実際に吉田松陰が塾生に教育を施せたのは安政3年8月から安政5年12月までと、大体2年半ほど。
塾生は90名前後。
その塾生の中には、久坂玄瑞、高杉晋作、野村靖、山形有朋、品川弥次郎、伊藤博文など…明治維新に名を轟かせた偉人が多数います。
伊藤博文…安政3年、浦賀警護に出役の際に、来原良蔵に見いだされて松下村塾に入塾。
のちの桂小五郎に従い、攘夷運動に参加。
久坂玄瑞…高杉晋作と同じく、松下村塾の俊才。松下村塾の四天王の一人。
前原一誠…吉田松陰に師事し、長崎に遊学、英学を修めた後脱藩し京都に遊学。
品川弥次郎…安政4年に入塾。寺田屋事変に関係、高杉晋作と外国公使襲撃計画、文久3年正月吉田松陰遺骨改葬に尽力をつくし士雇となる。
山田顕義…安政5年に入塾。
山形有朋…安政6年10月に、久坂玄瑞の紹介で入塾。
松下村塾の再現と反対側、社務所と駐車場の間にある小道を通った先には、吉田松陰のお墓があります。
吉田松陰は「安政の大獄」で亡くなれたわけですが、高杉晋作や伊藤博文などによってこちらにお墓が移され、さらに神社が建てられました。
お墓の入り口にある鳥居は、維新の三傑の一人・木戸孝允(桂小五郎)が奉納。
ちなみに、維新の三傑の他2人は、西郷隆盛と大久保利通です。
2018年の大河ドラマは「西郷どん」ですから、維新の三傑の所以などがわかりそうですね。
楽しみ!
こちらの御朱印は、500円。
由緒書きと吉田松陰のしおり付き。
ちなみに、吉田松陰の月命日である27日は、4月と10月をのぞき、吉田松陰のシルエットが押印されます。
例祭日と重なる4月27日と10月27日は、13時までは原則として書置きでの対応になり、それ以降は御朱印帳に記載してもらえるそうです。
また、お正月は数量限定での特別御朱印を頒布しているので、これは見逃せない!?
一緒にいただいたしおりは非売品。
檜木材に、吉田松陰の自賛画像がプリントされています。
この自賛画像は、吉田松陰が萩から江戸に護送される前に、久坂玄瑞の発案で松下村塾同門の松浦松洞が描いた肖像です。
さらに、小田村伊之助の発案で、吉田松陰が賛を書き記しました。
自賛と肖像が書かれたものは六幅、賛のみのものは二幅が作成され、親族や門下生に形見として与えられたそうです。
一緒に書かれている文には、以下のような大意があります。
「私の命は国家に捧げており、生死に関係なく忠誠心に変わりはない。
至誠を尽くせば心を動かさない者はいないと孟子は述べているが、古来の賢人達には及ばないまでも、その追い求めた道を精一杯追慕したい。」
季節的にも、境内には七五三を祝うご家族でにぎわっていました。
こちらの神社でお参りしたら、さぞや学業に精がでそうですね。
花にも、その御利益がちょっとだけでも得られるといいな♪