上野の国立科学博物館に来館した際に、「読んでいてよかったな」と思ったのが、コミック版・世界の伝記「伊能忠敬」。
伊能忠敬といえば、日本最初の実測地図「大日本沿海輿地全図」を作成した方。
そこに至る話がコミック版・世界の伝記「伊能忠敬」に掲載されています。
上野の国立科学博物館「地球館」の2階にある「江戸時代の科学技術」コーナーには、江戸時代のからくり、天文や測量、鉱業、博物学、算術などなど…当時の科学技術に関する貴重な展示品が並んでいます。
上野の国立科学博物館「地球館」に実物あり
伊能忠敬が全国を測量して回る際に使用した量程車と中型象限儀もあり!
…とはいっても、どちらも複製。
本物は伊能忠敬記念館(千葉県香取市)に所蔵されているのだとか。
量程車は、綱で引いて歩くと動輪と連動する歯車機構が回転し、歩いた距離を表示する機械。
測量では天体の観測も一緒に行われ、その際に使われたのが天体の高度を測る道具・象限儀。
その他、江戸時代に使われていた道具がズラリ。
事前にコミック版・世界の伝記「伊能忠敬」を読んでいたことからも、展示されている解説もするすると頭に入ってきて、花も興味津々と言った感じで見ていました。
コミック版・世界の伝記「伊能忠敬」では、日本最初の地図がどのように作られたのか…その壮大なスケールと凄さがよくわかる内容になっています。
伊能忠敬は知的好奇心の塊
伊能忠敬は、現在の千葉県九十九里町の生まれ。
延享2年(1745年)に、小関と言う名の家に生まれた次男坊です。
家は多くの船を所有するいわし漁の網元で裕福。
忠敬は小さい頃から知的好奇心旺盛な子供で、幼い頃より算術(そろばん)を習うほど。
ところが、母親が早くに亡くなってしまった事から、婿養子だった父・貞恒は小関家を離縁され、上の子どもを二人連れて実家に戻ることになります。
とはいえ、父の生活が安定するまでは小関の家を継いだ母の弟の元に残され、そこでたくさんの書物に触れて勉強に励む日々を送ります。
その4年後。
忠敬が10歳の頃に父の実家・神保家に引き取られますが、「勉強したい!」という気持ちからお寺に入り算術を学びます。
その上達は他の生徒を凌駕しており、「算術に優れた少年」として大人たちからも頼りにされる存在に。
16歳になると医師の元で奉公し医術を学び、17歳になると得意な算術を活かした土地改良事業の現場監督まで任されるようになりました。
そんな忠敬の噂を聞きつけ、酒や醤油の醸造を営む名門・伊能家の婿養子の話が持ちあがり、婿養子として迎え入れられます。
婿入りした忠敬は、伊能家を盛り立てていきます。
従業員への教育もしっかりしており、3つの約束事を守らせます。
もちろん、忠敬自身も。
倹約して新しい事業にも取り組み、お店を繁盛させていきます。
さらに、3人の子どもにも恵まれ、36歳には名主(村の代表)になり村の発展にも力を注ぎます。
1783年に浅間山と岩木山が相次いで大爆発を起こした「天明の大飢饉」では、倉にある米や買ってきた食料をタダで村人に提供。
堤防をなおすための仕事のため、地図が必要とし、「矢立」と呼ばれる携帯筆記用具を使って川の測量を始めます。
この頃の測量は「歩測」。
この測量から、忠敬は日本中の地図があればどんなに便利だろうと考えるようになったそうです。
忠敬の作った地図のおかげで立派な堤防ができ、この地の領主である津田日向守から帯刀を許されます。
39歳になると村方後見(名主を管理する、村人の中では一番偉い役割)になりますが、最愛の妻・ミチが亡くなってしまうという悲しい出来事も…。
そして、1790年。
隠居して江戸の一流の先生の元で勉強をしたいと考え、長男・景敬に家を継がせようとするのですが、領主からは「今しばらく力を貸してほしい」と受け入れられず。
したかなく、家でひとり勉強。
やっと隠居願いが聞き入れられたのは4年後。
江戸にいる天文学の第一人者・高橋至時(31歳)の元に弟子入りします。
ちなみに、忠敬は50歳。
しかも、深川の自宅に天体観測の機材をそろえるほど、天体観測に熱中。
昼は毎日歩測を続けた事からも、いつしか親しみを込めて「推歩先生」と呼ばれるようになりました。
そんなある日、蝦夷(現在の北海道)に行って測量をすることになります。
当時、まだ未開の地だった蝦夷の地図づくりは、幕府も重要視していたほど。
忠敬は、蝦夷地の測量と緯度1度の測量を調べるために向かいますが、これが17年におよぶ日本地図作りのスタートとなったわけです。
伊能忠敬は昼は測量、夜は天体観測と毎日欠かさず続け、それを測量日記につけています。
未開の蝦夷地の測量は困難を極め、実際に測量していない部分は「不測量」として線をつなげませんでした。
蝦夷地の測量「第一次測量」は180日間かけておこなわれ、それを元につくった地図は幕府に提出。
東南岸だけでしたが、未開の地だけあって喜ばれました。
蝦夷地の第二次測量を幕府に願いますが、代わりに許可されたのは伊豆。
伊豆の次には奥州まので東岸を任されます。
この後、忠敬は日本各地を測量していきますが、蝦夷へはいけませんでした。
代わりに間宮林蔵が測量士、伊能図の完成に大きく関わっていく事になります。
第2次測量ルートは伊豆半島から房総半島、下北半島までの東海岸。
第3次測量ルートは、東北地方の日本海側と越後街道。
第4次測量ルートは、尾張に出てから関ヶ原、福井…北陸を回って佐渡島など。
江戸に帰るとこれまでの測量をまとめ、幕府に提出する地図を作ります。
1804年に恩師・高橋至時が亡くなった後に、「日本東半部沿海地図」が完成。
11代将軍・徳川家斉にも評価されて幕臣に取り立てられ、幕府の名の元に測量をおこなう測量隊として、東日本に続き西日本の測量をおこなっていきます。
第5次測量では、東海道から紀伊半島をまわり、大坂(現在の大阪)・京都・近江・琵琶湖へ。
山陽道を下関まで行き、瀬戸内海の島々を測量。
第6次測量は大和・伊勢・淡路島と四国を中心に。
第7次測量は九州地方。
第8次測量は対馬・五島列島・屋久島・種子島。
第8次測量の時の忠敬は66歳。
もしもの事を考えて長男・景敬に遺言状を送っているほどでしたが、旅の途中で副隊長の坂部貞兵衛(42歳)、そして景敬(48歳)も亡くなるという悲しい出来事が起こります。
第9次測量では、さすがに江戸測量だけの参加にとどめ、正確な地図の作成に取り掛かります。
そして、1818年4月。
伊能忠敬は永眠。
享年73歳でした。
忠敬の死から3年後に「大日本沿海輿地全図」が完成したのですが、地図が完成するまで、弟子によって忠敬の死は隠されていました。
忠敬の仕事として地図を発表したのです。
国立科学博物館と合わせて読みたい
伊能忠敬についての資料は巻末に掲載されており、合わせて読むとさらに理解を深めることができます。
伊能忠敬が作った地図と現在の地図を見比べてみると、その正確さには驚いてしまうほどです。
4月19日は「地図の日」
伊能忠敬が蝦夷地に測量の為に出発した1800(寛政12)年4月19日から、この日は「地図の日」になっています。
大切な人が次々に先に亡くなってしまい失意の存底にあっても、忠敬は決してあきらめずに地図を作り続けました。
伝記からは、伊能忠敬の強い意志が読み取れ、またこれほど強い心がなければ成し遂げられなかったのだろうなと思うほど。
今のようなハイテク機器がなかった時代にこれほどの地図を作るのはとても困難だったと思います。
そうした地図作りの背景を知ってから展示品を見ると、また違ったきます。
千葉にある伊能忠敬記念館(千葉県香取市)にも、機会があれば是非訪れてみたいです。